2009-02-24

次世代設計・構造研究会で立石勝様の講演を聴く


次世代設計・構造研究会の第6回例会がホテルオークラで開かれる。
不況になり、経費節減でいつも見られる製造業の方のご参加がなかった。

株式会社テクノスターの立石様は、日立造船でNASTRANで構造解析をされた後、
アメリカのMSCに移籍、CAE開発・営業に努力された。その後、2002年株式会社テクノスターを設立された。

立石社長からは、日本製のCAEを開発したいという情熱が伝わる。
日本・韓国・インド・中国の技術者を集めた方法は、人づてだそうである。
つまり、社長と面談するうちに社長の情熱にほだされ、やってみようという事になったとわけである。

この会自体は、スズキ、ヤマハ、ヤマハ発動機などの大手企業のサラリーマンと、ソフトベンダーの社長、サラリーマンで構成されている。勤続年数とか、評価法とか、売上高利益率等中小企業経営に必要なノウハウをもっと伺いたかったのであるが、顧客もおり細かいことは、お話してもらえなかった。

しかし、開発に膨大な経費がかかっており、その費用を捻出するため社長が情熱をもって出資者をつのり、賛同者を開拓したご苦労はよく分かりました。

開発費の捻出に私も頭を悩ませています。社長のように、情熱を持って、あきらめずにプレゼンしなくてはいけないと思いました。

2009-02-19

うなぎパイファクトリー「産業観光」が突出

新しい観光分野の「産業観光」が名古屋から発信されて10年がたち、ものづくり産業が集まる中部地区で定着しつつある。年間約400万人を呼び込む。

なかでも浜松市の浜松技術工業団地にできた生産現場を公開する「うなぎパイファクトリー」。年間の来場は40万人にのぼり、今や浜松観光のドル箱だ。

「生産工程が確認でき、中国の子供たちにとっても日本の工場が分かる」。中部9県などでつくる中部広域観光推進協議会が昨秋、中国の教育旅行誘致を狙って招いた上海市の教育機関視察団から高い評価を得た。

この取り組みは中部地区への中国人観光客が目立って多いのを背景に昨年始められた。トヨタグループのものづくりを紹介する名古屋市西区の産業技術記念館(トヨタテクノミュージアム)などにも別の視察団が訪れ、いずれも好評だったという。

地場産業がそのまま観光ルートに乗る。そんな産業観光のきっかけは愛知万博(2005年)。世界的な知名度もない愛知をアピールするため、名古屋商工会議所が発案、提唱した。

全国に約1060件ある産業観光対象施設のうち、中部9県は計約280件と突出。愛知県では27施設あり、年間約430万人を呼び込む。

焼き物の美濃、万古、瀬戸、常滑岐阜や三重、愛知各県の地元6自治体は、まちづくりを念頭に「四銘陶」を掲げた交流、連携活動を進めている。

「国際誘客の道具としても使え、まちづくりのツールにもなりうる」。産業観光を推進してきた日本観光協会中部支部の須田寛支部長(78)は展望する。

中部広域観光推進協議会は「永続的にする仕組みが必要」と今後5年間にわたる観光ビジョンの柱の一つに産業観光を据えている。

ただ、世界的な不況で中国などからの外国人観光客が停滞しているのが気がかり。このため、観光振興を支援する中部運輸局は「ビジット中部緊急キャンペーン」を開始。

これまで情報発信していない海外の企業や旅行業者、団体などに産業観光を含めた中部の観光情報を提供。外国人観光客の誘客を狙う。

2009-02-06

JR東海須田様の産業観光のお話しを拝聴する


観光産業は自動車産業に匹敵する規模を持ち、かつもっと多くの従業員が係わっている事から、この不況を乗り切る大事な、産業であることを確信しました。特に「観光」という言葉にの定義から説明されたので、一言で、大事な点が理解できるプレゼンテーションでした。
以下、定義の要約

「観光」の意味
世上「観光」という言葉は往々にして誤解があるので、まずこの「観光」の意味を明らかにすることからはじめたい。

中国の「易経」には次の言葉がある。「国の光を観るは、王の賓たるに利し」。それぞれの地域の「光」特性を観たり、観したりすることによって人々の交流をはかることは「王」の重要なつとめであると教えている。

ここで観るという字を使うのは単なる「見る」ではなく「心をこめて見る」ことを意味し、観(しめ)すという字のなかには「誇りをもって見せる」ことを意味する。

「観光」という言葉が日本で多く用いられるようになったのは幕末から明治にかけての頃で、その当時は「観光」という言葉が語源通り正確に使われていた。日本がオランダに発注した二隻の軍艦は「成臨丸」と「観光丸」と名付けられた。

この「観光丸」は外国への留学生を運ぶために使われた。まさに外国の「国の光」を観るためのものであった。岩倉具視を団長とする海外視察団の報告書は「観光」という標題であった。

しかし昭和に入って日本が臨戦体制に入ると共に当時の政府は「観光」を不急不要の施策として禁句とした。このため「観光」という言葉を使うことがはばかられるようになった。

戦後、制約はなくなるが、抑圧からの解放であったため「観光」のことばがひとり歩きし濫用された。「観光」とは異質の射倖性の強い行動や風俗営業にまで「観光」の語が使われたり、単なる「旅行」の代名詞ともなった。

現在でも「観光」は「ものづくり」より下にあると考えている人も多い。「観光」はすばらしい文化的行動であり、また生産的な行動でもあることが正しく理解されていないない。

「産業観光は結構だが観光というともうけ主義的な低次元の行動だと思われるので観光という言葉を使わずにほかの言葉を使うべきだ」と学識経験者の提言で、この言葉が使えなかった事もあった。

「観光」という言葉を正しく理解して正しく使いたい。「観光」が数十兆円もの生産額をもつ日本の基幹産業であることを認識して、「観光」という言葉と行動に「市民権」を得たい。これが観光関係者の願いである。

「産業観光」を進めるには、また産業界の協力を得るためにもこの「観光」の語源と意味を明らかにすることが不可欠である。「産業」と「観光」を結びつける「産業観光」こそ「観光」が文化創造活動にあることを実践することである。

これなくしては交流の世紀、21世紀を実現することはできないとさえ極言したい。